「足りない」から「富」は生まれる
「不足」があるからこそ、
誰かに補ってもらいながら、
自分ができることを代わりに提供する
という流れが生まれる。
そして、人の交わるところに「富」が生まれる。
だって、お金は一人で持ってたって意味ない物ですもの。貯金はどうなの、って人、結局いずれ誰かにそれを払って何かを得ようとしてるんでしょ?それは、交流ですよ。
墓場まで一緒にお金を持っていきたいと思ってる人は結構レアじゃないでしょうか。
話をもとに戻すと。
だから、足りないことから、「富」は始まると思うんです。
だから、足りないことを、後ろめたく感じなくていいと思うんです。
それを埋めてもらう代わりに、私ができることがあると思うんです。
ここ小豆島も、
雨少ないし、急勾配な土地多いしで、
米穀の類は育たないんです。
(それ故に、中山の棚田とか、稀少価値があるんでしょうけどね。見た目も素敵だし。)
だから、穀物を他からもらう代わりに、自分たちが作った塩だの、醤油だの、素麺だのを送っていたという歴史があります。
そうして、モノや人が行き交うようになり、経済が回って、離島としては比較的規模の大きい社会が生まれたようです。(それでも、過疎化、高齢化は待ったなし、みたいですが。)
「足りない」から始まった、好モデルだと思います。
できない
たらない
ない
こういったことを、必ずしも消極的に捉える必要はなさそうです。
中山の千枚田です。気になった方は検索してみてくださいな。