Always-Be-Natural blog

自分の好きなもの、自分らしい生き方、naturalな自分をもっと。

無料は、やはり無料

ホント些細なことですけど、

 

この前飛行機使う用事があって、フライトが早朝で電車無くて、仕方なく前日入りしたんです。

 

そこで、お金をケチって成田空港第3ターミナルの24時間無料開放スペースで仮眠取ることにしたんです。

 

そこでは、色んな人たちがソファに寝転んだり、テーブルでご飯食べたりしてます。

 

こんな感じ

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それでね、

空いてるソファで仮眠取ろうとしたんです。

そしたら、

 

向かいで寝てるアジア人の耳元から漏れてくるイヤホンの音

 

隣で寝てるオバちゃんのイビキ

 

色んなものが気になりだして、イライラしてきました。日本人は我慢しちゃうところがダメなとこ!って自分を奮い立たせ、イヤホンの音漏れてるよとか伝えたり、イビキのオバちゃんには大きな咳払いとかさり気なく物音立てて起こしてみたりしたんです。

 

でも、依然として音漏れてるし、イビキうるさいし。

 

また言うべきか、それとも耐え凌ぐべきか。

 

でも考えてみたら、そこでイライラしてる自分が一番オカシイんですよね。

 

だって、そこは「無料」スペース。

自分が快適に過ごすために1円も払ってない場所。そこに快適さを求めるのがまさに奢りではないか。

 

そういうストレスを感じたくないなら、キチンとお金を遣うべきなのです。

 

公共スペースにまで気を遣う日本社会に慣れてしまうと、ときどき自分は何様気取りだろうと思うときがあります。

 

キレイな水も、安全も、快適な環境も、

誰かが私たちに届けてくれている。

その誰かには、喜んでお金を払うべきだと思う。

 

今日もお疲れ様でした。

 

 

上空3000mから落ちてみたら

今まで数々の映像で見てきた事だが、

 

空高くから落ちるってどんな感覚なんだろうか。

 

それを想像ではなく、この身を持って体感したかったので、先日体験してきた。

 

いきなり一人で、というのはさすがに無理で、インストラクターに後ろについてもらう「タンデム飛行」というものをしてみた。

 

セスナで飛び立ち、一気に上空3500mまで。この日は曇っていたが、1500mくらいで雲層は終わり、上は晴天が広がっていた。「天上界」を思わせる光景だった。

 

予定高度に達し、セスナのシャッターが開いた。外界と自分との隔たりが無くなった。同乗していたベテランダイバーが次々と飛び降りていく中、少し恐怖を覚えた。そしてついに自分の番。覚悟を決めてレッツダイブ!


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雲に到達するまでに約1分のフリーフォール。落ちても落ちても終わりが来ない。空気を切り裂きながら落ちる落ちる落ちる…。息は以外に楽。耳抜きしないと気持ち悪い。

 

初めて雲を吸い込んだ。今まで地上から見上げるしかなかった雲は、綿飴のように甘くはなかった。当たり前やん。でも、それも経験して初めて分かること。

 

雲の中でメインパラシュートを開いた。ぐーっと上に引っ張られる感覚。

 

雲を抜けると、地上が見えた。パラシュートが開くと、とてもゆっくりになる。さっきに比べると、落ちてないみたいにゆっくりゆったり落ちていく。余裕が出て来て、すごく寒いという感覚を覚えるようになる。

 

圧巻の景色。今まで飛行機の中でしか見られなかった景色を、自分が空に浮かびながら、風を感じながら見られている。

 

寒い、爽快、寒い、爽快、寒い、寒い…

 

その後無事ランディング。さすが、上手な着地で衝撃はほとんど無かった。

 

終わってしまえば、なんとあっけない笑

夢のような体験だった。

 

 

言う人に言わせれば、大金(といっても3万ちょっと)払ってなんで命を削るの?と言われるようなことである。

でも体験したいのだ。肉体を持って生まれてきた身として、この世を味わい尽くしたいのだ。

 

今回の体験は、私にとってみたらギャンブル、ブランド品、高級車やマイホームより価値があること。喜んで払いたい。それはあくまでも私の価値観なので悪しからず。

 

今回、突然の誘いにも関わらず同行を快諾してくれた同僚に感謝である。体験の共有は、さらにそれを豊かにしてくれる。ありがとう。

 

この世は、面白いことで溢れてる。


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自分を面白がれてる?

こんばんは。

 

あなたは、自分で、自分のことを面白がれてるだろうか?

 

これの答えがYESならば、あなたは結構充実していて、幸せなんじゃないだろうか。幸福度を上げる方法を思いついてしまった!

 

「自分を面白がる。」ということ。

 

自分の容姿

自分の性格

自分の長所短所

自分の好み

自分の感情のツボ

自分の悩み

自分の特技

自分の人間関係

自分の生い立ち

 

…とあなたを形づくるものは沢山あるわけですが、それらを面白いと思えるかって大事だと思うんです。ただ卑下したり、否定したりする材料としてじゃなくて、どうやったら面白くなるかと考えるんです。まぁそれがひいては自分を認め愛するということになるんでしょうが。

 

 

自分の面白がり方の研究。

 

「自分は、こんな性格だから、こんな事やらせてみたらもっと自分を面白がれそう。」

 

「自分にはこんな短所があるから、それを逆手に取ってネタにしたら周りにウケるかも。」

 

「自分にはこんな悩みがあるから、こんな環境に身を置けば色んな発見があるかも。」

 

 

自分自身をプロデュースするという事かもしれない。自分を、「私という役を演じる俳優」と「その俳優の演技を観て楽しむ自分」に分け、私をプロデュースする感覚。

 

この俳優には、こんな味があるから、こんな舞台に立たせ、こんな人と共演させ、こんな筋書きのこんな役をさせてみようと、色々試行錯誤してみるのだ。

 

多分、人の一生ってそんな感じだと思う。

 

あなたは、自分を、どんな舞台に立たせるのか。そして、自分をどう面白がるのか。

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今回も読んで下さり、ありがとうございます。そして、この記事のきっかけをくれた「あなた」にも、感謝します。

 

怒ることについての持論

今朝、長男に対して怒りをぶつけ、ゲーム機を取り上げ、保育園に強制連行した。

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祖母の作るご飯への不満と、怠惰な生活態度から、ゲームで遊ぶ資格はないと判断したためだ。

よく、親たるもの、先生たるもの、「怒る」べきではない、「叱る」べきだとか言われるけど、はっきり言ってクソくらえ、だ。

「怒りたくはなかったが、叱る必要があった」とか言う先生居たけど、ウザい。そんな思慮深い、理性の塊みたいなセンコーの言うことなんざ、到底聴く気にもなれなかった。

怒るも、叱るも、根底は「ムカつく」から始まっていいんだと私は思う。

大人だからといって、カッコつける必要はない。一個人として、他人として、その行為は腹が立つし、許せない。そのフラストレーションがエネルギーになって子どもに怒りをぶつけ、彼らに自省を求めることができるのではないか。そこにでっち上げた理性は要らない。

まぁ、年齢に応じた語彙ですとか、言い回しですとか、論理ですとか、そういう配慮は必要ですけど。だってアンフェアじゃない?暴力とかなおさらダメね。子どもが対抗できるくらいの筋力なり体力があれば話は別ですけど。要は対等にぶつからなければならないと思う。

親だって、怒っていい。自分をぶつけていい。そこから子ども自身がどう考えるかは、彼らの勝手ですけどね。笑

ちょっと「怒る」ということに関して、余談ですけど、人ってウツ病のときは、怒れなくなります。元気なときはちゃんと怒れて、それを誰かしらに伝えられる。

「あの人は、いつも穏やかで寛大でいい人ね。」なんて評価されて、周りも、本人も、ウツに気づいてないことはよくある事だから、気をつけたほうがいいよ。「怒らない」と「怒れない」は違うよ。

以上、経験談でした笑

さんざん怒鳴られたけど、ふてくさりながらちゃんと保育園行けた長男、えらかったなと思う。帰ったら話をしようと思う。

今日も、お元気で!

みんな至上主義

この記事、好きです。

 

『在庫はたくさんあるのに、なぜ“トイレットペーパー行列”ができたのか』

https://www.itmedia.co.jp/business/articles/2003/03/news043.html

 

「みんな」が大好き、「みんな」と一緒に行動して、「みんな」といたい国民性が、記事を読むとよく分かる。

 

なんら昔の戦時中と変わってないんだな、私たち笑

 

普段Jpopやら、自己啓発本やら、セミナーやらでは声高に「自分で選べよ」「周りに振り回されるな」なんて言ってるくせに、実際起きてみたらなんだ、このパニックは笑

 

心に余裕があるときは、強気なことも言えるよな。

みんなが行列に並んで、自分も買えなくなるかも…なんて心配になった瞬間に、せっかく学んだ自己啓発はどこへやら。自分もデマに巻き込まれる。本性丸出し。

 

 やはり、こういう国民性なのだ。

 

愚かなのだ、私たちは。そして、愚かな私たちは、やはり学び続けるべき存在なのだと思う。

 

今回のトイレットペーパー騒動は、私たちが自分自身を知る、恰好の教材となるであろう。

 トイレット ペーパー, 数独, 娯楽, おかしい, 役割, 紙, 衛生, トイレ

やはり劣等感に苛まれてしまう人へ

今日は、何だか劣等感に苛まれている。

 

原因は、仕事で自分の担当する部分だけどうも点数が伸びないためだ。

 

世の中はコロナの急襲で大変ですが、私は罪悪感に襲われている真っ最中なのだ。

 

「評価方法が悪い」だの、「同僚が足並みをそろえてない」だの原因をうまく周りに転嫁できれば良いのですが、なかなか上手いのが見当たらず、いよいよ自分のせいなのかと認めざるを得ない感じで、嫌な気持ちです。「あれをもっとこうしておけば…」といった類の後悔も実に辛いものです。

 

こんなときは、どう気持ちを切り替えて、快適に過ごせばいいんでしょうか。仕事休みで、一人孤独に思いを巡らしていると余計悪化してしまいます。

 

「色々やったって、結局結果は決まっているのだ」

と達観して、思考停止したら楽になれそうですが、これまでの経過を見るとどうも割り切れない。私に関係する方々に悪いことしちゃったなという罪悪感が勝ってしまう。

 

はー、どうしよ。

 

救いは、「違いへの好奇の目」だと考えました。

 

なぜ、自分は同僚より点数を稼げないんだろう

なぜ、同僚は点数が良いんだろう。

違いはなんだろう。

自分には、何が足りないんだろう。

 

「たまたま」で片づけることもできなくはない。が、因果関係がある気もする。

「気にしない、気にしない」と鈍感でいられないこともない。が、気分が晴れない。

「神様に見守られているから大丈夫」とスピ系に頼れなくもない。が、やっぱり逃げている気がする。

 

じゃあ、無理に楽になろうとしなければいい。精いっぱい違いについて悩めばいい。

自分と他人の違いを、研究すればいい。その違いをどうにか面白がればいい。

 

その違いを、劣等感のきっかけではなく「研究材料」にできればいい。

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それでね、

何か違いが分かったとき、

その違いを生んでしまった自分を責めたり、

上手くできない自分を否定したりしてはならない。

だって、その違いは過去には分からなかったからね。過去は過去なりに最善尽くしてたのよ。

 

休み明け、その同僚に徹底的に聞き取り調査しよう。何が違うのか考察してみよう。

もう少しぐだぐだ悩みは続きそうだが、早く私がこの悩みに飽きてほしいと願うばかりである。

 

いつも読んで下さりありがとうございます。同じようなことで悩みのツボに入ってしまった方の何かヒントになったら嬉しい限りです。

 

評価との付き合い方

他人の評価をご飯にして、人目に怯えながら送る人生

 

 

自分が評価しながら、面白い物事を探っていく人生

 

どっちが楽しいだろう。

 

私は、後者だと思う。だから、他者の評価なんて自分の関心が向く事以外はスルーしたいなって思う。難しいけど。

 

素を出してさ、ダメならダメって言われれば良いのだ。

 

それで凹んで、意欲も下がっちゃったなら、改善する気力もない、意義も感じられないならそこに固執するなよ。でもリタイヤしたならリセットされるからね、コネも、マネーも。そのリセットも覚悟できてるならあなたに不可能は無い。人生何回だってやり直せる。

 

一方で凹んで、変わりたいとか、何クソ、とか奮い立つのであれば、まだできる事がありそうならば、続けたらいい。

 

どっちも正解だな。

 

肝心なのは、

それに直面して、「自分」はどう思うのかだと思うのです。

 

評価されて、その後の対応まで他人の評価ベースで考えちゃうのはナンセンスだよ?「どう動けば好印象かな」とかどんだけお人好しなの?いや、単に他人依存してるだけか笑

 

 

クヨクヨしてないで、面白いこと考えようよ。今週もお疲れ様でした!ご自愛下さい〜。

 


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こんなご時世だからこそ、脳内はお花畑に!ポジティブに!