GWが始まりましたので
お久しぶりです。
新生活の中、記事をしばらくお休みしておりました。
たくさんのことをインプットしながらのアウトプットは、なかなか気分が乗りませんでした。
さぁ、暦の上ではGWが始まりましたが、実感としてはコロナ禍の影響であまり変化がありません。
変化と言えば仕事がお休みになったくらいで、
子ども普通に家に居るし、外出自粛で自分もお店とか必要がない限り行かないし遠出しないし、ここ小豆島も観光客らしき人は見かけなくなりました。
未だに私の地元ナンバーしょってる車に乗ってる私が一番観光客っぽい?
近況報告です。
畑を始めました。GW使って耕します。
近くに水道ないので、毎日家から水運び汗。
明日は、雨らしいから、水やり行かなくて大丈夫そう。タンクにも自動で水が溜まる。雨がこんなに有り難く感じるのは初めてだな。
釣りもしてます。
仕事帰りに釣り糸を垂らす幸せ。魚が、よくかかる、マズメっていう日の出と日没の前後一時間の時間帯と帰宅が重なるのでちょうどいい。
収入減っても、全然幸せだ笑
普段が幸せになると、支出を減らそう!って本気で思える。
まぁ、来たばかりでハネムーン期だからこれからも同じように感じるかは誰も分からないがな。
でも、仕事では課題が見え始めていて、適度に苦しい。場所が変わって職場が変わっても、人生の課題はやっぱりやって来るものだ。
では、また。
「ない」の呪い
「ない」
これが口癖になっている人は、はっきり言っていつまでも不幸だ。
しかし、なかなか本人は気づけないし、直せない。直す気もない。
「うちにはお金がない。」
「時給自足するしか、生きていけない。」
「お手伝いできない、お前はダメだ。」
「無駄な出費は、しないほうがいい。」
「無」に意識を向けさせ、豊かな方からは目を進んで目を背ける。
「ない」の呪いは、思ったより強力であると思う。
その内容が、例え真実であったとしても、言った本人、言われた周りのエネルギーの損失は計り知れない。
要は、ヤル気を削いでイライラばかりを引き起こす。
De-Motivatorの存在は、組織にとって由々しき問題であり、厄介である。警告を発しているつもりで、実は損失しか生んでいないのだから。
「貧しくても、生活できてる。」
「自給自足すれば、もっと豊かになる。」
「お手伝いできる君は、もっと素晴らしい。」
「そこで出費抑えれば、もっと趣味に使えるよ。」
言葉の些細な言い換えが、どれほど心を救うかなど、
信じない人には、一生分からない。きっと来来世くらいでやっと気づくんだろうなぁ。
でも
信じる人は、一生救われるのにな。
「ない」の呪い
のお話でした。
人生など、川のようで
そこには確固たる意志があって、
自分の人生を切り拓いていくみたいな感じはカッコいいし、そうあるべきだと思ってしまう。
ただ、
その意志だって、環境によって変わる。
その欲求だって、移ろいゆく。
筋を通さねば、と信じたいだけ。
意志は固くあるべきと、自分が思い込んでるだけ。
結局人生など、ただの川の流れのように、流れ流されてゆくものかもしれない。
わたしは、川を流れる一枚の葉っぱ。
ふと気づいたら、川を下っていた。
その葉っぱが、ときに順風満帆に進んだり、ときに淀みに躓いたり。そしてまた、大きい物に巻かれたり笑。
よく、葉っぱがあたかも群れを成しているようにかたまっていることがあるが、そんなのは、まるで人間でいう友人であったり、家族であったりする関係。つがいの葉っぱは夫婦のよう。
どの支流へ流れてゆくかは、私たちが進路だとか、将来だとか言うもの。
結局そんなものだと思う。
だから、もっと肩の力を抜いていいんだと思う。
所詮、我々は一葉にすぎぬのだから、幾らもがいても流れは止まらないし、周りの景観も刻一刻と姿を変えてゆく。
離れるものは離れ。
近づくものは近づき。
私たちは、より下流へと近づいてゆく。
そしていずれ、私たちは大海に出る。
それは、全てが一つとなる場所。ワンネス。
もうそこは、ただただゆったりと漂う場所。
そしていつしかまた、私たちは大地に還り、新たな葉になり、一から川下りを楽しむのであろう。
もし、色んなことに疲れたならば、今日の話を思い出して。
そんな、意地をはらないでいい。
そんな、執着しないでいい。
そんな、頑張らなくていい。
私たちは、川を流れる一枚の葉っぱ。
トライ&エラーさせてやらねば
子どもを育てているとどうしても「怒られない子」を育ててしまうが、これではその子は大成しないと思う。
子どもは自分本位で動くことによって、外界との接し方を知り、どこまでが許され、どこからがアウトなのかという、ボーダーを知る。
子どもは、本当に辛辣に怒られると行動するエネルギー、意欲をも削がれる。自分と社会を擦り合わせることを止めてしまう。
萎縮して、周りの大人の目ばかり気にする大人が出来上がる。
もちろん、空気読める力は大事だが、内気で縮こまって、自分の意見もろくに言えない人は、はっきり言って使えない。その人が何をしたいか、どうしたいのかが読み取れないからだ。
読み取れなければ、
コミュニケーションも深まらないし、
関わろうという気も起きない。
結果、使いたくても使えない人になる。
優秀な学校に行かせる
お稽古事させる
教育意識高いエリアに住む
みんなが気にするどれもこれも、実は些末やで?
どんな卑劣な環境でも、天才は生まれるで?
大事なのは、
その子に体験させて、
失敗させて、
考えさせて、
こちらからポジティブなフィードバックを返すこと。
もちろん、して欲しくないことには指導していいんだと思う、怒っていいんだと思う。
一緒に謝りに行かなきゃならないこともある。それでも、好奇心の目を潰してはならない。
親はある程度、どーんと構えている必要があるんだと思う。未然に防ごうとすればするほど、子どもはダメになる気がした。
住まいを小豆島に移しました。
島暮らしってどんなんだろう。
島民の方と付き合うってどんなんだろう。
島で子育てするってどんなんだろう。
仕事辞めて転職するってどんなんだろう。
家族連れで引越しするってどんなんだろう。
人生をスローにするってどんなんだろう。
自分に正直に生きるってどんなんだろう。
そんな疑問に応えたい結果、香川県は「小豆島」に引越してみたーっていう話。
数ある島の中から小豆島を選んだ理由は、海が外海に比べて格段に穏やかであること、気候が比較的温暖なこと。以上。
そもそも私は関東内陸県出身だから、ガラッと変わるわけです。
この4月から、島暮らし始めまして、目下の目標は、大きな魚を釣ること。だって全然釣れないんですもの。釣具屋と堤防の往復で、勉強中です。釣りに詳しい方いましたら、情報下さいー。
お近くにお住まいの方も、ぜひぜひ交流しましょー。
人の役に立つ、ということ
人の役に立ちたいという志ほど、
世の中から称賛され、奨励されることはないでしょう。
それはそれは、素晴らしいことです。
ただ、その思いが強すぎる人は、
人の役に立つことで自分の存在意義を他人からも、自分からも認めてもらおうとしているのかもしれない。
つまり、他人からの承認欲しさでやってませんかということです。
つまり、本当にその人がやりたいことは、「自分に満足したい」ということなのかも分かりません。
しかしその行為が結果的に、他人の利益につながるのだから、いいのです、オールOKなのです。
しかし本当にやりたいことが「自分に満足する」ということであれば、人のニーズに応えるということはあくまで手段に過ぎないということです。
そこが分かっていると、人の役に立とうと思ってやったことが、残念な結果になって返ってきても、別段腹を立てることもなくなる訳です。あなたは自分に満足したいがためにやったんですから、その期待を達成できなかったから心がモヤモヤした、それだけのことです。準備万端で釣りに行って、結局ボウズで帰ることと同じことです。それで魚に腹立てたりします?笑
人の役に立つ=感謝される
という方程式を無意識に信じてる人は、せっかくこんなにしてあげたのにお礼も無いなんて!ってバカみたいに腹立ててるけど、そもそもその式がまちがっとんのよ。
そんな下らん式は、さっさと捨てましょ。
これからの聞き方としては、
「あなたの夢は何?」
「何をして、人の役に立ちたいですか?」
ではなく、
「あなたは何をして、自分に満足したいのですか?」
にしましょう笑。
なんだか、人生の本質を突く質問を作ってしまったような気がする。笑
全ては勝手な「好き」から
あなたの勝手な「好き」「やってみたい」から、全ては始まっているのだから、それを止めるときもあなたの「好き」でいい。
大抵の場合、始めたときには、最終的には本人が納得している(もしくは判断を「委任」している)ことが大前提である。
なぜ、止めるときに躊躇するのだ。「始めたからには、やりきらなければダメ」という思い込みに惑わされるな。
あなたが一人入れ替わっても、別に世の中は変わらない。ならば、直感を信じて、もっと面白そうだという思いを大切に。
でもその一旦始めたことにもたくさんの学びがあって、人との出会いがあって、自分を考える材料を頂けるものだ。
だから
その今まさに軌道を変えようとしている過去の選択を、悔やまない。その時の気持ちは本物だから。
物理的命は有限。その中で、経験しようと思っていたことが経験できなかったとしたら、それこそ後悔の一言に尽きる。
今日も直感を信じて、生きましょう。